日本 世界遺産の旅 パート3

日本 世界遺産の旅

 

現在日本には全部で23個の世界遺産が登録されています。

内訳は自然遺産が4、文化遺産が19となっています。

今回は日本の世界遺産23個を3回に分けて紹介していきたいと思います!

 

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17. 神宿る島 宗像 沖ノ島と関連遺産群

 

 『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」は,福岡県にある世界遺産で、

 「神宿る島」沖ノ島を崇拝する文化的伝統が,古代東アジアにおける活発な

 対外交流が進んだ時期に発展しました。

 また沖ノ島への入島は原則禁じられ、“島にあるものは一木一草一石たりとも

 持ち帰ってはならない"“島で見聞きしたことを漏らしてはならない"などの

 禁忌があり、謎に多く包まれています。

 

18. 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

 

 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産は長崎にある世界遺産で、

 古代キリスト教が禁じられている中で、長崎と天草地方において、

 日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら信仰を続けた潜伏キリシタン

 信仰継続にかかわる伝統のあかしとなる遺産群です。

 

19. 百舌鳥・古市古墳群

 

 百舌鳥・古市古墳群は大阪堺市にある世界遺産です。

 古墳時代の最盛期であった4世紀後半から5世紀後半にかけて、

 当時の政治・文化の中心地のひとつでした。

 かつては100基以上あったといわれますが、現在は44基が残っています。

 

20. 屋久

 

 屋久島は鹿児島県にある島で自然遺産として登録されています。

 屋久島といえば屋久杉を見に行くトレッキングなどが有名ですが、

 海もとても綺麗で運が良ければウミガメが見れたり、

 ダイビングをしたりなどをするのも人気です。

 また、ヤクシやヤクザルなど屋久島でしか見れない動物などもいます。

 

21. 白神山地

 

 白神山地青森県西部から秋田県北部にわたる広大な山地の総称で、

 世界遺産の自然遺産として登録されています。

 白神山地は人の影響をあまり受けていない、現世的なブナ天然林があり、

 その他にもツキノワグマニホンザルなどの動物たちも多く生息しています。

 トレッキングや登山をすることもできます。

  

22. 知床半島

 

 知床半島は北海道にある世界遺産で、自然遺産として登録されています。

 知床半島は観光地としても人気で、知床五湖では散策などができ、

 カムイワッカ湯の滝は滝自体が温泉になっていて人気があります。

 またクルーズでは野生のマッコウクジラやイルカ、更に5月〜7月には

 シャチが見れるチャンスもあるので、日本の最果てらしい経験をすることができます。

 

23. 小笠原諸島

 

 小笠原諸島は東京都の行政区域で世界遺産の自然遺産として登録されています。

 小笠原諸島は東京本土から南に1000キロ行ったところにあるのですが、

 自然遺産として登録されて以来、観光地としても人気で、東京とは

 思えない海の綺麗で海上アクティビティが人気です。

 また、他の陸地と一度もつながったことがないので、固有の動物も多いです。

 

 

 

といことで日本の全世界遺産を紹介しました!

家から行けそうな所があれば是非行ってみてください〜!!

 

日本 世界遺産の旅 パート2

日本 世界遺産の旅

 

現在日本には全部で23個の世界遺産が登録されています。

内訳は自然遺産が4、文化遺産が19となっています。

今回は日本の世界遺産23個を3回に分けて紹介していきたいと思います!

 

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9. 琉球王国のグスク及び関連遺産群

 

 琉球王国のグスク及び関連遺産群は沖縄全土にある9つの資産です。

 当時の沖縄は日本の文化とは異なった国際色豊かな独特の文化が形成されました。

 その特色を如実に反映している文化遺産が城(グスク)です。

 特に有名なのは首里城ですね。

 首里城は1429年から1879年までの450年間に渡り琉球王国の国王の居城であった城です。

 

 

10. 紀伊山地の霊場と参詣道

 

 紀伊山地の霊場と参詣道和歌山県にある世界遺産です。

 紀伊山地は太古の昔から自然信仰の精神を育んだ地で、

 6世紀に仏教が伝来した以降、紀伊山地真言密教をはじめとする

 山岳修行の場となりました。

 

11. 石見銀山遺跡とその文化的景観

 

 石見銀山遺跡は島根県の中央にあり、石見銀の採掘・精錬から

 運搬・積み出しに至る鉱山開発の総体をしていました。

 最盛期には世界の産銀量の約3分の1を占めた日本銀のかなりの部分が

 石見銀山で産出されたものと考えられています。

 また石見銀山の銀は、初めは中国との貿易で流通していましたが、

 ヨーロッパ人の参入により世界的な経済・文化の交流に影響を与えることとなりました。 

 

12. 平泉ー仏国土

 

 平泉は、11世紀~12世紀の日本列島北部領域において、

 仏教に基づく理想世界の実現を目指して造営された政治・行政上の拠点です。

 その拠点に存在する4つの庭園は、奥州藤原氏により、

 現世における仏国土の象徴的な表現、

 つまり池泉・樹林・金鶏山頂と関連して仏堂を周到に配置することにより

 実体化した理想郷の光景として造営されました。

 

13. 富士山ー信仰の対象と芸術の源泉

 

 

 富士山は外国人からも人気が高い世界遺産です。

 富士山の標高は3776mで日本を代表し象徴する「名山」として親しまれてきた。

 また古くから噴火を繰り返したことから、霊山として多くの人々に恐れられていました。

 登山でも人気で毎年夏が近くなってくると、登山や観光客で賑わっています。

  

14. 富岡製糸場と絹産業遺産群

 

 富岡製糸場と絹産業遺産群群馬県にある世界遺産です。

 世界経済の貿易を通じた一体化が進んだ19世紀後半から20世紀にかけて、

 高品質な生糸の大量生産の実現に貢献した技術交流と技術革新を示す集合体です。

 この技術革新は生糸を生産する過程全体を今日に伝える顕著な見本となります。

 

15. 明治日本の産業革命遺産

 

 

 明治日本の産業革命遺産は幕末から明治期にかけて、西洋地域以外の地域において初めて、

 かつ極めて短期間のうちに産業化を果たし、飛躍的な発展を成し遂げました。 

 構成資産は、九州(福岡県、佐賀県長崎県熊本県、鹿児島県)・山口県を中心に、

 静岡県岩手県を含む8県に分散しており、

 遺跡群全体で一つの世界遺産として登録されています。

 

16. ル・コルビュジエの建築作品

 

 建築家・都市計画家ル・コルビュジエの作品のなかから選ばれた三大陸7か国

 フランス・日 本・ドイツ・スイス・ベルギー・アルゼンチン・インド、

 に所在する17資産で構成されていて、大陸をまたぐ世界遺産は初めてで、

 日本には東京都台東区にある、「国立西洋美術館」が登録されています。

 

パート3に続きます〜!

 

 

 

日本 世界遺産の旅 パート1

日本 世界遺産の旅

 

現在日本には全部で23個の世界遺産が登録されています。

内訳は自然遺産が4、文化遺産が19となっています。

今回は日本の世界遺産23個を3回に分けて紹介していきたいと思います!

 

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1. 法隆寺地域の仏教建造物

 

 法隆寺地域の仏教建造物奈良県にある建造物です。

 法起寺は7世紀に創建された寺院ですが、

 いまは706年に完成した三重塔のみが残っており、

 寺院では現在も宗教活動が続けられています。

 

2. 姫路城

 

 姫路城は名前の通り、兵庫県姫路市にある城で、

 1600年に城主となった大名池田輝政が翌年から1609年に

 かけてこの地にあった古城を廃して新たに城を建造しました。

 内郭地域の城郭建築は当初の姿がほぼ完全に残っています。

 

3. 古都京都の文化遺産

 

 京都は794年から1868年にかけて天皇が居所をおいた日本の首都であり、

 政治や経済の中心として繁栄しました。

 そんな時代に作られた17箇所の寺社と城郭が登録されています。

 有名なのは清水寺金閣寺鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)などがあります。

 

4. 白川郷・五箇山の合掌造り集落

 

 白川郷・五箇山の合掌造り集落岐阜県にある世界遺産です。

 合掌づくりの大きな屋根の下は3~5階からなり、1階は広い居室空間、

 2階以上は屋根裏部屋の寝室あるいは作業空間となっています。

 1棟には数十人からなる大家族が住むのが一般的でした。

 

5. 原爆ドーム

 

 大正4年(1915年)に広島県内の物産品の展示・販売をする施設として建てられ、

 広島県美術展覧会や博覧会も催されていました。

 ですが、当時原爆の爆心地から約160メートルのところにあった建物で、

 爆風の圧力は1平方メートルあたり35トン、風速は440メートルという凄まじいもので、

 建物は爆風と熱線を浴びて大破し、 天井から火を吹いて全焼。

 爆風がほとんど垂直に働いたため、本館の中心部は奇跡的に倒壊を免れたものの、 

 館内にいた人はすべて即死しています。

 このことから世界平和や原爆を世界からなくすと意味で世界遺産に登録されました。

 

6. 厳島神社

 

 厳島神社広島県にある世界遺産で、瀬戸内海の島を背後にして、

 その入江の海の中に木造建物が建ち並ぶ日本でも珍しい神社です。

 社殿構成は12世紀にはじまりましたが、その後焼失し、1241年に再建されました。

 海の中にある美しい自然景観が評価され17世紀ごろから、

 日本三景の一つに数えられています。

 

7. 古都奈良の文化遺産

 

 古都奈良の文化遺産は710年から74年間日本の首都だった奈良の

 8つの資産からなる世界遺産です。

 多くの建物は兵火によって消滅しましたが、再興されました。

 再興に際しては、当時の新しい中国の建築技術が導入されました。

 その代表的建物が東大寺南大門です。

 

8. 日光の社寺

 

 日光の社寺は栃木県にある世界遺産で、4つの資産で登録されています。

 その中でも有名なのは東照宮でしょう。

 日光東照宮徳川家康が祀られた神社で、現在の社殿群は、

 そのほとんどが1636年に3代将軍家光により建て替えられたものです。

 境内には国宝8棟、重要文化財34棟を含む55棟の建造物が並び、

 その豪華絢爛な美しさは圧巻です。

 

パート2に続きます〜!

 

 

世界遺産 ピラミッド

世界遺産 ピラミッド

 

世界遺産に登録されているピラミッド。

現代になってもいまだ謎が多く、観光地としても有名です。

今回はそんなピラミッドの歴史を紹介したいと思います!

 

ピラミッドの歴史

 

ピラミッドは今から4500年前にエジプトで建てられました。

ピラミッドが作られた目的としてもっとも有名なのが、「王墓説」と言われています。

ですが、肝心のミイラがほとんど見つかっていないことや、

別の場所で王の墓が見つかっていることなどから、この説を否定する意見もあります。

もうひとつ、ナイル川の氾濫によって農作業ができなくなったため、

農民を労働力として用い給料を支払うことで救済した

「救済土木事業説」という説もあります。

ヘロドトスの『歴史』には、奴隷を酷使して無理やり作らされていたという

記述もありましたが、実際の作業員たちは家族で暮らし、

報酬をもらい、パンやビールを口にしていたことがわかっています。

勤怠管理はしっかりしていて、たとえば家族のミイラ作りを理由に休日を取得する、

いわゆる慶弔休暇もありました。なかには二日酔いで休んだ人もいるそうです。

そのほかピラミッドが造られた目的としては、「日時計説」「穀物倉庫説」

「天体観測施設説」などさまざまな機能をもつ建造物だといわれていました。

どれも詳しいことは明らかになっていませんが、

 

葬礼と何らかの関係があるのはほぼ間違いないだろうとされています。

 

ピラミッドの建設

 

ピラミッドは、元々の高さが146.59m、底辺が230.37mという大きさで、

重さ2.5tもある巨石を約280万個積み上げて築造されています。

想像しづらいですが、これは東京ドームの2.5倍以上の大きさです。

約20年間で作られたことがわかっていて、これほどの規模の建造物を、

短期間でどのようにして完成させることができたのか、

その建設法を巡ってさまざまな説が議論されています。

その石積みの技術は非常に高度なもので、底辺の長さの誤差は20cm、

東西南北に垂直に交わっている四辺の誤差は100分の5度しかありません。

1311年にイギリスでリンカン大聖堂が建てられるまで、世界でもっとも高い建造物でした。

建設に関わった人数は推定2万人とされています。

 

なぜここまで大きなものを作ったのかや作り方など全てにおいて、

謎が多いピラミッド。

今後研究が進み、謎が解決するのを待つばかりです。

 

ピラミッド観光

 

そんなピラミッドですが、スフィンクスなどが芸術的にも評価されており、

観光地としても人気です。

ピラミッドはエジプトの首都カイロから車で約1時間ほどで行くことができます。

また日本人ガイド付きツアーなどもあるので、そちらを利用すると、

安心安全で行くことができます!

 

ということで今回は、ピラミッドの歴史などをまとめてみました。

興味があるなら是非行ってみてください!!

 

 

世界遺産 マチュピチュ

世界遺産 マチュピチュ

 

世界遺産の中でも屈指の人気を誇るマチュピチュ

今回はそんなマチュピチュの歴史などを紹介していきたいと思います!

 

マチュピチュの歴史

 

マチュピチュが発見されたのは、1911年ペルーのアンデス山中を歩いていた

アメリカ人大学講師のハイラム・ビンガムが発見しました。

1911年にマチュピチュを発見した探検家のハイラム・ビンガム3世は、

元々はビルカバンバという別の町を探していました。

ビルカバンバとは、インカの人々が1532年のスペイン人侵略から

逃れてたどりついた先と言われており、やがてそれはインカの失われた都市

として語り継がれるようになります。

ビンガムはマチュピチュがビルカバンバであると主張していたが、

1956年の彼の死後、それが間違いであったと証明されました。

 

マチュピチュに見られる石の建造物のほとんどは、

漆喰を使わずに建てられました。

石は計算したように正確に切り出され、隙間なく積み上げられていて、

その建築様式には、見た目の美しさだけでなく、工学的な利点もあります。

その理由はペルーは地質活動が活発な国で、

首都のリマやクスコも地震に見舞われたことがあり、マチュピチュの下にも、

2本の断層線が通っています。

地震が起こると、インカの建物は「踊り出す」と言われています。

つまり、地震の揺れに伴って石が互いに衝突しあい、最終的に元の位置に納まる想定です。

このような建て方でなければ、マチュピチュの多くの有名な建造物はとうの

昔に崩落していたことでしょう。

 

マチュピチュといえばその見事な石壁が有名だが、土木工学もまた驚くほど発達していて、

インカ人は運搬用の家畜や鉄製の道具、車輪を使用していなかったそうです。

私たちが現在目にする遺跡は、ふたつの小さな頂の間を削り、

石や土を取り除き、ある程度平たんな土地を作って、その上に建造されました。

エンジニアのケネス・ライト氏は、マチュピチュの工事の

60%は地下に隠されていると推測しており、建物の土台を地下深くまで掘り下げ、

さらに粉砕した石を敷いて水はけを良くしました。

 

マチュピチュ観光

 

現代のマチュピチュ旅は決して安いものではなく、

クスコからの電車代は片道1万円以上するものもあるうえに、

入場料はどのオプションを選ぶかによって約5000~7000円かかり、

遺跡までの高さ600メートルの山道を往復するバス代は3000円近くかかるります。

運動が嫌でなければ、バス代を浮かせるため徒歩で登ることもできます。

急な山道は、1911年にハイラム・ビンガムが歩いたおおよその道をたどり、

ビンガムが生きていた当時とほぼ変わらないマチュピチュ歴史保護区の

絶景を眺めることができます。

上り坂はきつく、所要時間は約90分かかります。

 

人生で一度は行ってみたい場所マチュピチュ

今回はそんなマチュピチュをまとめてみました。

興味がある人は是非行ってみてください!

万里の長城の歴史

万里の長城の歴史

万里の長城の建設は、春秋時代(紀元前770年から476年)に始まりました。
秦王朝(紀元前221年から206年)に最初に完成し、
明王朝(1368年から1644年)には防衛の目的として再建されました。
春秋時代万里の長城(紀元前770年~476年)この時代に長城は初めて
築かれたといわれています。
現在の中国の東には中央部の地域に支配国があったとされており、
この地域を守るために城壁が築かれ、 それが万里の長城のような造りのものでした。 ですがその規模は小さかったようです。

建設された意味
戦国時代の万里の長城(紀元前475年~221年)領土と権力のために争いを 起こすとき、周の王の影響力が衰えていました。 小さな国は戦国時代の初めまでに7つの大きな国(楚、斉、魏、燕、趙、秦、漢)
を築くため統治者によって吸収されました それぞれの国は小さな長城のような自国の防護壁を作りました。 秦の時代(紀元前221年~206年)戦国時代の結果、 秦が最強の国として他国を征服し、全土を統一しました。
秦の始皇(秦の時代、紀元前247年~221年の王)は始皇帝になり、 秦によって最も短い期間、支配されました。 始皇帝は中国北部の長城建設に着手しました。特に北部は秦、趙、燕の国に
よって築かれ、北方モンゴルからの攻撃を防ぐため、 一直線の壁が作られました。
そしてそれが現在ある「万里の長城」です。 100万人もの労働者と9年におよぶ歳月をかけ造られました。 他の国の境界壁は統一した中国の中で廃れていきました。 完成した時点のその全長は約5000キロメートル、 「1万里(1里約5km)の長さもある壁」として知られるようになりました。
秦の時代の万里の長城は西は甘粛省から東は遼寧省遼東半島まで 続いています。

漢の時代(紀元前206年~西暦220年)紀元前210年には、 秦の始皇帝の没後、秦の国はその権力がなくなり漢の時代になりました。
そして漢の時代は中国の歴史上最も輝かしい時代でもあります。
北の防御施設また城壁の周囲、 数百キロメートルとモンゴルとの国境付近でも同様にさらに強化するために、
延長されました。
東側、北朝鮮ピョンヤン近くの沿岸から西は 玉門関までの漢の時代の長城は長さ8000キロにもおよびます。 隋の時代(581年~618年)この時代には長城の延長修復が見られます。
そして封建時代の絶頂来である唐の時代(618年~907年)へと続きました。
すぐれた力と優越した北方遊牧民族に対抗するすべもなく
長城には何も行われませんでした。
宋の時代(960年~1279年)宋の時代は中国の経済と貿易の発展が 行われたことでよく知られています。 北部・北西地方で遼や西夏、金の侵略を防ぐための建設の歴史があります。
しかし金や満州は長城のいたるところを手に入れ、
金の時代(1115年~1234年)には中国北部を支配していました。 金の時代の長城は広大なモンゴル帝国の侵略を防ぐことはできず、 破滅し元の時代(1271年~1368年)が始まりました。
元の時代は中国が漢民族ではなくモンゴル族に支配されていた最初の時代です。
長城は1500年間にわたる漢民族の壮大なプロジェクトでした。 長城の建設は宋時代には中断されました。
明の時代(1368年~1644年)万里の長城地図ー明朝万里の長城地図ー明朝謀反の リーダー朱元璋(のちの元のリーダー)のもと、漢民族が再び支配し、
元は崩壊しました。
中国は明の時代に繁栄し、軍も増大しました。 長城はさらに北方の敵から守るため、 100年間の計画で再構築されました。 修復された長城のほとんどは明の時代に築かれたものです。 そしてそれは八達嶺や慕田峪など明の長城として知られています。
明の時代の後の歴史(1644年~現在まで)現在、万里の長城
中国旅行には欠かせない観光スポットになっていますね!
1644年に満州から必ず通らなくてはならない山海関は 漢民族最後の王朝、清の時代(1644年~1911年)には長城のシンボルになりました。
長城の最後の端として八達嶺からここまで中国政府によって修復され、 1957年には観光地として公開されました。
今回は万里の長城の歴史を記事にしました!
現在では中国の有名な観光スポットで、世界遺産にも登録されていますが、
建設された意味などを知ると見方が変わってきますよね!

 

中国世界遺産の旅55 その14

中国世界遺産の旅55 その14

 

現在世界で一番世界遺産の国別登録ランキングがイタリアと並んで1位の中国。

今回はそんな中国の55の世界遺産を紹介していきたいと思います!

 

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40.中国丹霞

 

 中国丹霞は中国南部に残る赤い堆積岩が織り成す地形で、

 それが顕著に見られる6箇所が自然遺産として登録されました。

 日本で「丹霞」は夕焼け雲などの意味ですが、

 中国では、「丹」は赤・朱色の意味で、

 「霞」は夕焼けなどで空が紅色に染まる現象のことで、

 中国では主に丹霞は地理用語として使われています。

 赤く染まった綺麗な丹霞地形が幻想的で、

 人気が高いスポットです。

  

41.広州西湖の文化的景観

 

 広州西湖は、中国十大風景名勝のひとつに数えられる湖です。

 「西湖十景」に代表される絶景スポットがあります。

 その美しさは、古くから多くの詩に表現され、

 現在だけではなく、昔の人々からも愛されていたのがわかります。

 湖の周囲は約15km、面積は6.4km2、東西2.8km、南北3.2kmで、

 ウォーキングやジョギングなどをし、回るのもおすすめです。

 この西湖は堆積した土砂によって銭塘江と切り離され、

 秦漢時代に出現したと考えられています。

 白堤、蘇堤、楊公堤の3つの堤防によって西里湖、北里湖、小南湖、岳湖に分けられ、

 湖には小瀛州、湖心亭、阮公墩の小島が浮かぶます。

 

42.澄江の化石産地

 

 世界遺産に登録されている化石産地は、世界に10件以上ありますが、

 中国雲南省澄江から発掘される化石は、世界的にも珍しい時代のもので、

 恐竜どころか生物が地上に進出する前の約5億4200万年前から

 約4億8830万年前までのカンブリア紀と呼ばれる、

 古生代前期最初期の動物群の化石が多数発見されています。

 ですが観光するときは、今も化石の発掘などがされているので、

 観光客ように澄江動物化石群博物館があるので、

 そこで様々な化石などを見ることができます。

 

43.上都の遺跡

 

 上都の遺跡は、北京から北へ約275kmほどのところにあります。

 内モンゴル自治区のシリンゴル盟正藍旗南部に広がっています。

 上都は、モンゴル帝国5代皇帝であり、元朝初代皇帝のフビライ・ハンが

 築いた最初の首都で、1260年に即位した場所です。大都(北京)が

 できてからは上都と改称され、フビライが夏の間に滞在する避暑地として、

 利用されていました。上都は外側から外城、内城、宮城と呼ばれる都城があり、

 東西には東涼亭、西涼亭という狩猟場がありました。

 

44.紅河ハニ棚田

 

 紅河ハニ棚田雲南省南部にある棚田で、

 かつてハニ族が作った棚田です。

 ハニ族はこの紅河ハニ棚田を約1300年もの間維持してきた棚田です。

 総面積約54000ヘクタールで、最大標高1800メートル、

 最大勾配75度の斜面にまで築かれていて世界最大級の棚田です。

 四つの幹線水路と392の溝が張り巡らされている。

 水牛や牛、アヒル、魚などを利用する独自の耕作技術により、

 1世帯につき2~3区画の棚田で赤米を生産しています。

 山上に位置する森林は土地の保全、水供給などの役割があり、

 その下に集落が営まれている。

 

45.新疆天山

 

 新疆天山は世界的にも大規模な山系として知られていて、複数の国にまたがります。

 中国を始めとしてキルギスカザフスタンなどにもまたがっていて、

 中国の「新疆ウイグル自治区」に属する4つの地区、ボゴダ、バインブルク

 クエルデニンとカラジュン、トムールの4つが

 新疆天山として世界遺産登録されました。

 また世界遺産としてだけではなく、科学的調査や探検スポット、

 フィットネスやレジャーなども最適なスポットになっています。

 

46.シルクロード

 

 中国を統一した漢が中央アジアまで支配下に治めた紀元前2世紀頃、

 都長安(現在の西安)から西アジアやインドに達する交易路が開けました。

 この交易路が後にシルクロードと呼ばれることになりました。

 16世紀まで幹線として利用され、学問、芸術、宗教などの伝播をも促しました。

 シルクロードは国境を越える世界遺産としては初となる世界遺産になりました。

 また世界遺産に登録された総延長の距離は、8700kmで、

 世界遺産の規模としては世界最大級の大きさです。

 一説にはシルクロードの東の終着点は日本のならと言われており、

 奈良の正倉院にはシルクロードを経由された宝物が数多く残されています。

 

47.中国大運河

 

 中国大運河は北京から黄河と長江を横断し、杭州へと渡ります。

 全長1794kmの京杭大運河は、紀元前5世紀に開削が始まって、

 6世紀に隋の煬帝が完成させました。

 元・明代に修築・拡大され、現在も北京と天津、

 済寧と杭州区間は動脈として利用され、中国の経済活動を支えています。

 大運河が開通したことによって、経済面で優越していた南が

 政治・文化の中心地である北と連結され、中国全体の流通が増大しました。

 この大運河は社会的に大きく貢献しました。

 

 

その15に続きます!